銘 天下一今井長門守藤原久影作 箏
この箏の箱ふたの裏には和紙で3行に「寛永12年 銘 天下一今井長門守藤原久影 顔 6月吉日」と書かれています。

状態

古い蔵を解体していたところ、古い箏が箱に入って出てきた。 しかし、箏箱がねずみにかじられ穴が開き中にあった和紙の書物は無残にも粉々に 箏は周などに蒔絵と螺鈿、木目込みなどの細工がある物で、箏板は長年使われたのか、 かなり爪でかかれたのか箏が穴が開くほどのすり削られていて箏糸も数本しか残らずその他年数のため蒔絵の漆も浮いてきている。

彦根博物館にも所蔵されている
この「天下一今井長門守藤原久影 銘」が入っている箏は、彦根の美術品収集家であった井伊直弼で知られた井伊家が保存していた。現在は、寄贈され彦根博物館にあるということです。

真贋
 彦根博物館に問い合わせたところ、箏の中に同じように銘が墨で書かれていれば間違いなく本物ですとのことで早速しらべたところ、其の通り書かれていました。
実際に弾かれていた箏であることは、状態でも解りこれだけ箏板が摩りへっているのは、目の不自由な人が使っていた事が伺えます。で八橋検校が使っていた箏であると言われています。

現存する箏は
箏に関する専門家(彦根博物館の方も推薦した研究家)の出版物には、こう書かれています。天下一今井長門守藤原久影 作の箏は、現存する箏師は、彦根博物館が所蔵する箏のみであると書かれています。

箏を始める
城秀は加賀都(後の柳川検校)と 城秀(後の八橋検校)の二人の座頭の三味線名手ありと称された人物であった。 その加賀都  三絃独自の本手を作って独立一流を樹てた そこで先鞭をつけられた城秀は落胆し潔く三絃を捨て一念発起自らの進路を箏に求めて従来の雅箏楽箏に着目 それをやさしく俗箏とし て開発し 一般庶民の音曲として世俗に投ぜんことを念願して 転向邁進する事を決意した (三絃や三味線などは庶民の物しかし、箏は武家の姫、高僧、公家などが奏でる高貴な物)で報償も高く検校の位に必要な報償を得られ、自らの名声も高められると考え、当時江戸に在った元善導寺の僧法水を慕うて江戸に下り 筑紫流の筝を学び始めた。当時、盲人は箏を弾けないという掟があった。

箏師 天下一
 都で天下一と称した箏師がいることを知り都に居る母に頼み製作依頼したのが寛永十一年で待つこと一年、寛永十二年六月に都から箏が出来た知らせを都より受けるが、其の年には物事の整理が付かず十三年に上洛するに至った。その箏を携え江戸に戻り十分な箏の修行が出来た。

八橋検校と称する
 
その後寛永十三年(八橋二十三歳)京都に上り 寺尾検校札下と して職格を得て山住勾当となる 同十六年(二十六歳)昇進して上永検校となり 名を城談 と称し後に八橋検校城談と改む 若き座頭の三絃名手の一人加賀都は京に上って柳川検校となり 座頭の一人城秀は江戸に 下り 後京に上って八橋検校となり 俗箏の開山として八橋流をひらいた。

その他、八橋検校についての、京の紅屋の極楽息子、藤本箕山は全国遊郭を30年かけて踏破した(風俗の実態を記録した遊里百科全書や色道大鏡を出版)の養護によるもので、文献は、、kenkou.html、kenkousanada.html、kenkousiden.html、seijitomita.html、小野お通と真田家、等いろいろあります。